LOGINそんなことがあった翌日。俺は教室に着くや否や即座に机に突っ伏し、安堵の声を漏らす。
「学校がこんなに嬉しいと思ったのは初めてだ……」 アコがいない。ただそれだけだというのにとても心地が良かった。 いや、アコが悪い子ではないのはわかるのだが、しかし俺の生きたいと願う形と合わないことへの心のずれが、感情を壊していくのである。 そんな時、俺の背中がぽんぽんと叩かれる。 顔を上げるとそこには一人の女子がいた。 「八島、どうしたの、そんなに黄昏れて」 陶器のように白い肌。草色のセーラー服からはふんわりと太陽の香りが漂っていて、くりくりとした大きな瞳が、じっと俺を見つめている。 そんな倉戸紐育《ぐらどいく》に向けて俺は重いため息まじりに答える。 「あ、紐育……いや、別に黄昏れてるわけじゃ」 「じゃ、眠いの?」 紐育が少し青みがかったストレートの長髪をかき分けながらくいっと首を傾げた。口元から朝何を食べたのかわからんが、妙に甘い香りが漂う。それは何となく心地のいいものだった。 俺は頭をぼりぼりと掻き、視線を窓の外へと向ける。初夏の息吹を感じられる明るくて暖かい青空が広がっていて、何とも気持ちのいいものだった。少し開かれた窓から流れる風にはほのか暑さすら感じられる。 そんな楽園的な空気が俺の瞼を鉛のように重くしていくのだ。 「そういうわけでも……いや、眠いな」 「変な八島」 と、紐育が俺の肩をつんつんとつつきながら顔を近づけ、 「私の頬をすりすりさせてあげようか?」 ふう、と耳もとに息を吹き込んできた。 「わあ! 何するんだよ紐育!」 俺は思わず肩をびくんと跳ね上げてしまう。眠気など吹っ飛んでしまった。 「あはは、赤くなってる赤くなってる」 「そ、そんなこと」 「ほれほれ、すべすべのほっぺだぞー? 気持ちいいぞー」 「う……ぐ……なら」 「なんてね」 ぺろっと紐育が舌を出してウインクした。 ああ、紐育らしい。 「はは、ったく紐育は相変わらずなんだから」 これが紐育の性格だ。稚気溢れるというか、もう受験生なんだから少し大人になろうぜというか、言いたいことはいっぱいあるが、でも―― 「八島、元気戻ったね」 そこに悪意がないから俺としては強く言えないのである。 「……そうかい? それなら――」 「楽しそーですねえ」 声。 澄んだソプラノボイス。超聞き知った声。 「っ!?!??!?!?!?!?」 俺は声が出なかった。出なかったけど、絶叫してしまった。 矛盾しているようだが、実際そんな感じなのである。 「どったの八島?」 紐育が不思議そうに顔を近づけてきた。俺の顔との間は五センチもない。近い。 でもそっちに気を回す余裕はなく、俺は―― 「あ、ちょっと……お花摘みに」 そう言って教室を出ることしかできないのだった。 紐育が呆れたように肩をすくめる。 「ベルサイユ宮殿じゃないんだから素直にトイレって言いなよ」そんなことがあった翌日。俺は教室に着くや否や即座に机に突っ伏し、安堵の声を漏らす。 「学校がこんなに嬉しいと思ったのは初めてだ……」 アコがいない。ただそれだけだというのにとても心地が良かった。 いや、アコが悪い子ではないのはわかるのだが、しかし俺の生きたいと願う形と合わないことへの心のずれが、感情を壊していくのである。 そんな時、俺の背中がぽんぽんと叩かれる。 顔を上げるとそこには一人の女子がいた。 「八島、どうしたの、そんなに黄昏れて」 陶器のように白い肌。草色のセーラー服からはふんわりと太陽の香りが漂っていて、くりくりとした大きな瞳が、じっと俺を見つめている。 そんな倉戸紐育《ぐらどいく》に向けて俺は重いため息まじりに答える。 「あ、紐育……いや、別に黄昏れてるわけじゃ」 「じゃ、眠いの?」 紐育が少し青みがかったストレートの長髪をかき分けながらくいっと首を傾げた。口元から朝何を食べたのかわからんが、妙に甘い香りが漂う。それは何となく心地のいいものだった。 俺は頭をぼりぼりと掻き、視線を窓の外へと向ける。初夏の息吹を感じられる明るくて暖かい青空が広がっていて、何とも気持ちのいいものだった。少し開かれた窓から流れる風にはほのか暑さすら感じられる。 そんな楽園的な空気が俺の瞼を鉛のように重くしていくのだ。 「そういうわけでも……いや、眠いな」 「変な八島」 と、紐育が俺の肩をつんつんとつつきながら顔を近づけ、 「私の頬をすりすりさせてあげようか?」 ふう、と耳もとに息を吹き込んできた。 「わあ! 何するんだよ紐育!」 俺は思わず肩をびくんと跳ね上げてしまう。眠気など吹っ飛んでしまった。 「あはは、赤くなってる赤くなってる」 「そ、そんなこと」 「ほれほれ、すべすべのほっぺだぞー? 気持ちいいぞー」 「う……ぐ……なら」 「なんてね」 ぺろっと紐育が舌を出してウインクした。 ああ、紐育らしい。 「はは、ったく紐育は相変わらずなんだから」 これ
何とか入浴を終え、パジャマに着替えた俺は自室のベッドに倒れるように寝転がる。 「ああ、疲れた」 たかが飯を食うだけ、たかが風呂に入るだけでなんでこんなにも疲れるのでしょう? 理由は一つしかない。 「さ、音楽を聴きましょう!」 「寝ます」 俺はゴロンと寝返りを打つ。 しかしアコは俺の肩を掴み、無理矢理ひっくり返してきやがったではないか。 「ええええええ! じゃあ寝ホンしましょう」 「寝ホンって何?」 初めて聞く言葉である。 「寝ながら音楽を聴くことです。断線の原因になります」 「じゃダメじゃん」 俺による至極まっとうな突っ込み。 アコは口を抑え、はっとなったように目を見開く。 「あ、そうでした! 私、リケーブルできるから大丈夫」 「リケーブルって何?」 「イヤホンのケーブルを交換できるんですよ! 別売りで! 断線対策は勿論、ケーブルを変えることで音質を向上させられるんですよ!」 「…………」 俺はじろじろとアコを見る。人間である。どこからどう見ても人間である。 となれば、言うべき言葉はこれしかない。 「君のどこをどう変えるわけ?」 「そりゃあ、勿論――あ、しまった! 今私人間だからリケーブルしたら腕引っこ抜けます」 「……ばーか」 「ひどい!」
かぽーん。そんな擬音が今にも聞こえてきそうなぬくもり。 「ふう、やっと解放された……」 湯船につかり、やっと一息つける。 俺は浴槽に背を持たれ、ぼんやりと考える。 「しかしなんだありゃ? 一体俺にどうしろと……」 いや、何度も彼女は言っているのだからそれはわかる。俺にオーディオとやらを揃えて聴いてくれと言っているのだ。 それを断わった理由の一つは金だ。俺は学生であって、アコが提示したであろう機器を揃える金がない。 だが、あくまで理由の一つでしかない。 俺にとって最大の拒否理由は、何かを望むことが怖いのだ。 何も望まず、何も考えず、何もやらない。それだけがコンプレックスにまみれた俺の処世術であって、俺の未来に何か、得体の知れない恐怖のようなものをぼんやりと抱いてしまうのだ。 失うとか、無くすとか、そういう具体的なものではない。 ただ、ぼんやりとした恐怖、いや、不安であった。 俺ははは、と苦笑して湯船に顔をうずめる。ぶくぶくと泡を立てる。 と、その時。 「八島くん!」「わあ! 何で来るんだよ! 濡れたら壊れるんだろ!?」 俺は声を上げずにはいられなかった。 まさかそこまでするとは思わなかった。 しかしアコの裸体か。実は全く興味がないわけではない。朝見たけどな。 俺は湯船から顔を出し、ちらっと見る。 ――衝撃的であった。 「ですからビニール被ってきました!」 「…………」 そう、アコの言う通り彼女はビニールを被っていた。凄い大きいやつ。頭からつま先まで完全に覆われている。しかもビニールが黄ばんでいる。しかもなんかパリパリしてそうというか、固まっているような。 どこから持ってきた? 「どうしました?」 「息出来るの?」 俺は全くどうでもいいことを質問してしまった。 いや、聞くべきはそこじゃないだろう。 「私人間じゃありませんから」 でも、彼女が言ったその一言であることに気づいた。
結論を言うなら、わかってくれなかった。「…………」 「ねーねー、私で聴いてくださいよ、音楽」 今日の夕飯はサキが作り置きしてくれたカレーだった。三日分ほど作ってくれたため、寸胴一杯にある。腐らないか心配だ。あとで小分けにして冷蔵庫に入れないと。俺は取り敢えず寸胴を温め、飯に盛った。辛口のカレーから漂う香りがつんと鼻を刺す。 「…………」 「黙ってないで、はい、耳ぷすっです」 俺はカレーをテーブルに置き、スプーンを手に取る前に耳に突っ込まれた指を払う。 さて、食おう。 「…………」 「あん、もう勝手に抜いちゃダメですよ。そういうの断線の原因になるんですよ」 俺はカレーを一口だけ食うとかちゃっと音を立てながらスプーンを置き、後ろでず――――――――っと抱きついているアコに向けてゆっくりと声をかける。 「あのね、アコさん」 「アコでいいですよ」「じゃアコ。俺が言いたいことわかるか」 「はい! オーオタになるにはどうすればいいかってことですね!」 どんっとテーブルを殴りつける俺。 「ちげーよ! さっきから四六時中俺に絡みやがって! なんでべったり俺にくっつくんだよっ!」 女の子に絡まれるのが嬉しくないわけではないが、こうも何時間もずーっとくっつかれるとはっきり言ってうざい。美女は三日で飽きるというが、ハグは三時間で飽きる。 てか暑苦しいんじゃ! 飯食いにくいんじゃ! のけっ! しかしそんな俺の気持ちはちっともわかってはくれなかった! 「だって私イヤホンですし。ケーブルがご主人様に絡むのは当たり前じゃないですか」 「fっじょrjgじぇあ!」 もはや言葉にならない。何て良いかわからない。 この女には常識というものがないのだろうか? 「ジャパニーズプリーズ」 言いたいことは山ほどある。とにかく言いたいことが山ほどある。 だが、あまりにも多すぎるのでとても言えない。となれば―― 「取り敢えず常識的なことだけ言う」 「はい!」 アコはとても嬉しそうに返事を
俺はひくひくと眉をひそめる。 「……自分で悪霊って言っちゃうんだ。で? 俺に何して欲しいの?」 「はい! 私八島くんに踏まれて壊されちゃったのでまずそれを修理して欲しいです!」 まあ確かに踏んで壊したのだから、その意見そのものは至極まっとうである。 ただし、それはあくまで意見それ自体の話である。 「俺イヤホンなんか直せない」 そう、はっきり言って俺は手先が不器用だ。電子機器の工作なぞしたことがない。 自分で言うのもなんだが本当につまらない人間なのである。 何の特技もなく、何の取り柄もなく、何を思うわけでもなく。 でも、それを知っているからこそ身分相応にただ黙って生きてきたし、多分これからもそうなのだ。 それを、アコは否定しているわけで。 一体どうしろというのでしょう。 そんなことを悩んでいると、アコは何てことのないようにこう言い放つ。 「イヤホン専門店で直してくれますよ。数千円で」 「……高いね。で、それで成仏してくれるの?」 「いいえ」 「なんでだよ!」 意味ねーじゃねえか! するとアコは俺の手を握り、妙に真剣な顔つきでじっと見つめてきたではないか。 「だって八島くん、せっかくお姉さんに買って貰ったのに全然使ってくれる気配がないじゃないですか。欲求不満なんですよ、私」 昨日の今日で使えってか? どんだけせっかちな悪霊だよ。 俺は頭をぼりぼりと掻きながら視線を逸らし、少しだけ申し訳なさを込めながら。 「使ってって言われても……俺あんまイヤホンとか使わないし」 「ええ!? 私こう見えても八万五千円もするんですよ!?」 仰天。 「はぁ!? なんでたかがイヤホンがそんなにするんだよ!?」 「だって私、一磁極性バランスドアーマチュア型シングルBAイヤホンのフラグシップモデルですし」 「…………」 何言ってるのかさっぱりわからん。 目をぱちくりさせている俺を見つめながら、アコは眉間に少し皺を寄せながら高らかにとんでもないことを
俺はベッドに腰掛け、はぁ、とため息をつく。 目の前にはサキの服をまとったアコの姿がある。身長に違いがあるのか結構だぶだぶである。それはそれで何か可愛らしさが漂っているので俺ととしてはこれ以上特に言うことはない。 「えーと、取り敢えず服は着せたからいいとして――」 まず、彼女を呼ぶにしても何と呼べば良いのかわからない。俺は腕を組み、うーんと首をひねる。 「えと、名前が……」 すると女の子はだぼだぼな袖を引っ張りながら妙に通る声で元気よく答える。 「AHP004と言います」 「人間の名前じゃねえ……」 「イヤホンですから」 AHP004はなんてことのないように言った。 俺はもう一度深いため息をつき、ぽすんと枕に背中を預ける。腰に変な負担がかかってちょっと痛かった。 「なんか呼ぶとき強烈な違和感があるから、別の呼び方ない?」 AHP004は俺の隣に座り込み、人差し指を口元に添えながらうーんと天井を見上げる。その表情はどことなく稚気を感じさせ、なんていうか、こんな時なのにかわいいと思えるほどだった。 「と言われましても……あ、じゃあこうしましょう。私、同社イヤホンのフラグシップですからフラグちゃんとでもお呼びください」 とはいえ、だからといって彼女の案を受け入れられるかというと、話は別である。 「それも呼びにくいなあ。それにフラグシップって別に君以外にもあるよね? 他社ならさ」 「まあ、そりゃ」 「なんかこう、君を現すに相応しい、こう、なんかいいのない?」 できれば人間っぽい名前はないのだろうか。 正直人間に向かって数字を使ったり、フラグちゃんなどという縁起の悪い名前を口にするのはどうにも憚られるというか、精神的にあまりおよろしくない。 まあ、あくまで個人的な感情でしかないのだけど。 「あー、じゃあ我が社の名前からもじってアコというのはどうです?」 「アコ……。おお、それは人の名前っぽくていいね! よし、決定!」「おそれいります」 AHP004、もといアコは誇らしげに小さく頭を下げた。 さて、これ